新潟県岩船郡関川村・下関
しもせきたいさい / 大蔵神社祭礼
まだ暗いうちに、戸を叩く音で目が覚める。
ヤレカガオギレ——ほら、かあちゃん起きろ。
関川村・下関の秋は、その声から始まります。
だいわ
宝暦4年——1754年。
下関の大輪は、そう伝えられています。
地元では「だいわ」と呼びます。担ぎ手として参加した方の言い方によります。未確認文献では読みが確認できていません。
いま町を回っている大輪が、そのときのものとは限りません。一度、川に流されているからです。
昭和42年(1967年)8月28日、羽越大水害。荒川が氾濫し、関川村にも犠牲になった方がいました。
そのとき、大輪は組み立ての途中でした。流されて、一部だけが残り、残ったものに修理が加えられました。
その大輪がいつ作られたものなのかは、まだ調べられていません。
この村には、大蛇が荒川をせき止めて下関を水没させようとした、という伝説があります。その大蛇を祀る神社の祭りで使う大輪が、実際の水害で流されました。
水害の記憶は、いまも語り継がれています。昭和63年(1988年)に始まった「えちごせきかわ大したもん蛇まつり」では、竹とわらで作られた大蛇が村を練り歩きます。全長82.8メートル。水害が起きた8月28日から取られた長さです。村の54集落が分担して胴体を作り、つなぎ合わせます。
→ えちごせきかわ大したもん蛇まつり(関川村観光協会)
2026年の祭りに担ぎ手として参加した人の記録によれば、出るのは一基。車輪は二つで、木のままです。鉄の輪は巻いてありません。大きさは、人の背丈よりやや高いくらい。
車輪が二つという点は、村上のおしゃぎり(二輪)と同じで、新発田の台輪(三輪)とは異なります。
1987年の報告書にある「外輪に鉄輪をはめない」構造は、いまも続いていることになります。
車輪はイタヤ材。薄く漆を塗って仕上げてあります。
組み合わせには釘を使いません。外輪に鉄の輪もはめない——木のままの車輪です。高欄と柱は欅。ほかは杉。
大輪の上には、仁徳天皇の人形が載ります。民の家から炊事の煙が上がっていないのを見て、三年のあいだ税を免じたという天皇です。
人形は、高殿から四方を眺める姿。頭に烏帽子をかぶっています。まさに、その場面です。
そして「仁徳天皇のお供」という形で、毎年、人が同乗します。なぜそうするのかは、まだ分かっていません。
進みながら、前が上がる。それが合図です。後ろに体重をかけて、持ち上げた前を地面に落とす。「あおり」と呼ばれる所作です。車輪には鉄の輪をはめていません。木のままの車輪で、それをやります。
持ち上げるのも、落とすのも、揃っていなければできません。力まかせに見えて、そうではない所作です。
鉄を巻いていない木の車輪が、道に落ちる。2026年の映像を解析したところ、あおりの瞬間、音の重心は334Hzまで下がりました。人の話し声より低い帯域です。音の記録を見る
注記この節の記述は『新潟県の山車:新潟県文化財緊急悉皆調査報告書』(新潟県文化財調査年報 第24/新潟県教育委員会/1987年3月)にもとづいています。同報告書は県内各地の山車を調査したもので、その筆頭に「岩船郡関川村下関の大輪」が挙げられています。1987年の調査時点の記述です。現在の状態とは異なる可能性があります。
毎年9月中旬/大蔵神社の祭礼
江戸時代の記録には、村の氏神は三社——大蔵神社・神明之宮・稲荷大明神とあり、その祭礼は「三八両月」、旧暦の3月と8月に行われていました。旧暦8月は、いまのおおよそ9月にあたります。
開催日は年によって前後します。紹介記事の多くは9月14日・15日としていますが、2025年は9月13日・14日と案内されていました。
一日目は神事だけで終わります。二日目、神輿を先頭に、大輪と山車と樽神輿が集落を回ります。神社の境内には出店が並びます。
江戸時代の記録に、こんな一行があります。
今ハ大蔵大明神ト申テ、大社杉等抔ノ境内ニテ、祭礼ニハ足揃ノネリ物出ル也。
「足揃のねり物」——隊列を組んだ練り物が出ていた、という意味です。いまの大輪や山車の、前の姿かもしれません。
前を持ち上げて落とす「あおり」は、大輪だけのものではありません。山車でも行われ、そちらには子供と女性が乗ります。同じ所作を、担い手を変えて二重に持っている祭りです。
二日目、神輿を先頭に、大輪・山車・樽神輿が集落を回ります。一日目は神事だけで終わります。大輪の上には、仁徳天皇の人形が載ります。
下関は旧米沢街道の宿場町でした。国の重要文化財である渡邉邸と佐藤邸が、いまも通り沿いに残っています。町並みは2007年に「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれました。祭りは、その道を通ります。
創建は大同年間(806年)以前とされています
祭神は須佐之男命・大己貴命・櫛稲田姫命。出雲系の三神です。神社に伝わる『大蔵神社略縁起』は、こう書き出されています。
抑々越の後州岩船郡小泉荘関郷の総鎮守、大蔵神社は、大己貴命にし——
蛇喰(じゃばみ)という集落に、忠蔵という炭焼きがいました。昼寝をしていたところを大蛇に襲われ、斧で退治します。持ち帰って味噌漬けにし、十三樽半。妻と娘に「中を見るな」と言い置いて、家を空けました。
妻のおりのは、禁を破ります。一口食べたら美味しくて、とうとう全部食べてしまいました。
激しい渇きに襲われて女川の川辺へ行き、水面をのぞくと、そこに映っていたのは角の生えた大蛇でした。
数年後、大里峠。盲目の琵琶法師・蔵の市が休んでいると、女が現れて琵琶を所望します。女はおりのと名乗り、こう明かしました。荒川をせき止めて、下関一帯を水の底に沈め、自分の住処にする、と。
蔵の市は村に知らせました。大蛇は退治され、下関は沈みませんでした。
2026年の祭りで撮影された写真に、境内の標柱が写っていました。そこには「大藏神社」と並べて「座頭宮(ざとうのみや)」と書かれています。
古い記録にも「坐頭の宮」「大蔵神社大明神」という呼称が残っています。関川村観光協会は「座頭の高潔な心に深く感謝し、その琵琶と共に大蔵様として祀り上げました」と説明しています。
盲目の琵琶法師・蔵の市を祀る社という性格が、いまの標柱に残っていることになります。
大蔵神社には、蔵の市のものとされる琵琶が神宝として伝えられています。「見ると目が潰れる」と言い伝えられ、いまも非公開です。
神社には『大蔵神社略縁起』と『大蔵祠詞』という二つの文書が伝わり、これが伝説の原型とされています。略縁起は承応2年(1653年)のもの。370年以上前の記録です。
大蔵神社は「渡邉邸ゆかりの神社」と紹介されます。享保17年(1732年)に家督をついだ渡邉家四代・善永が、翌18年(1733年)、大蔵神社の社殿を再建しました。
神社の神主は吉田家。渡邉家は吉田家を援けていた、と村史の別冊にあります。
渡邉家の初代は村上藩の郡奉行でした。寛文7年(1667年)に下関へ移り、回船業と酒造業を営みます。下関は米沢街道の宿場であり、荒川舟運の川湊でもありました。
2026年・関川村在住(このアーカイブの運営者本人)
このアーカイブは、外から調べているだけではありません。運営者自身が2025年と2026年、大輪の紐を引く担ぎ手として参加しています。その記録から、紹介記事のどこにも書かれていないことが分かりました。
あおりは、いつでも始まるわけではありません。
「張ってください」
「◯◯様より花があがりました」
この声で始まります。「花」は祝儀のことです。誰かが花を出すと、そこであおりが行われます。
配置は、大輪の前に4人、車輪に左右1人ずつ、後ろに3人。そして紐を引くのが約30〜40人。笛と太鼓は、大輪に乗っている人が演奏します。
樽神輿の役割を担う七人は、家系で決まっていると伝えられています。
山車には踊り手のやくの女の子と、青年団に所属する年代の人たちが乗ります。男性が前、女性が後ろ。半被の色も違います。大輪は深い紺色、山車はオレンジ色です。
渡邉邸の前にある役場の駐車場で舞や踊りが披露され、記念撮影と休憩のあと、渡邉邸の前で大輪のあおりが行われます。
休憩のとき、神輿を担ぐ人たち——半被ではない衣装の人たちが、渡邉邸の中へ入っていくのが見えたそうです。中で何があったのかは分かりません。
2026年の祭りのときに聞いた話です。大輪を新しく作ったところ、あおりの高さが上がった。制作者が「実際にどう動かすのか見たい」と言うので実演したら、制作者は驚いて「これは壊れる」とこぼしたそうです。
未確認これがいつのことで、どこを作り直したのかは、まだ確かめられていません。ただし手がかりが一つ出ました——平成29年(2017年)に大輪の修繕の記録があります(村の記録から)。
あおりがどんな音なのかを書いた記録は、活字にも映像の解説にも見あたりません。そこで、2026年の祭りで撮影した映像の音声を解析しました。
あおりの最中と、通常の進行中を比べると、音の重心が580Hzから334Hzまで下がります。人の話し声より低い帯域です。20〜60Hzが9dB増える——耳で聞くというより、体で感じる帯域です。
同時に、4k〜8kHzが16dB近く増えます。これは打撃そのものではなく、木と木がきしむ音です。車軸、梶棒、車輪の縁。そして篠笛の音域は10dB以上沈みます。あおりの瞬間、笛は打撃に飲まれます。
ただし、数字は聞いた人の言葉の代わりにはなりません。あの音を地元でどう言い表すのか、まだ分かっていません。
映像を確認すると、大輪の屋根から「花」と書かれた札が何枚も下がっていました。あおりが「◯◯様より花があがりました」の声で始まることと対応します。
祝儀を出した人が、大輪の上に掲げられる。これは公開されている資料のどこにも書かれていません。
撮影した映像そのもの、および切り出した画像は、いまのところ公開していません。写真・映像の掲載基準を満たす画(人が特定できない引きの画)が、まだ手元にないためです。
2026年の写真から分かったこと
紹介記事は「神輿・大輪・山車・樽神輿が練り歩く」で止まっています。その前後に何がいて、何を持ち、どういう順で進むのかを書いた資料は、見つかっていません。
2026年の写真から、次のものが確認できました。
未確認面をつけた人物を地元で何と呼ぶかは分かっていません。赤ら顔に高い鼻、白い長髭という特徴は猿田彦の面の典型ですが、「猿田彦」「天狗」など呼び名は土地ごとに違います。薙刀や幡が何と呼ばれ、誰が持つ役なのかも分かっていません。
行列の役の名前を、ご存じの方に教えていただきたいと思っています。
議会の会議録と、宝くじ助成の一覧を読んで分かったこと
祭りの由来を書いた資料は見つかりません。そこで、村がお金を動かした記録を読むことにしました。関川村議会の会議録168件と、宝くじ助成(コミュニティ助成事業)の交付一覧です。由来は出てきませんが、年と金額という動かない数字が出てきます。
村議会の会議録と、助成した側(自治総合センター)の交付一覧の両方に、同じ内容が記録されています。祭りの名が村の外の公的文書に載っている例として、いま確認できる唯一のものです。
未確認記録は事業名と金額だけで、どこを直したのかは書かれていません。担ぎ手の証言にある「新しく作ったら、あおりの高さが上がった」がこの修繕を指すのかも分かっていません。2017年は9年前で、「ここ10年以内」という見立てとは合います。
村の広報紙「広報せきかわ」を全文検索しました。本誌39号(2023年1月〜2026年9月)と、お知らせ版70号(2023年6月〜2026年9月)。「大祭」「大輪」「山車」「下関まつり」は、いずれも0件でした。「夏越」「稚児」「獅子」も0件です。
お知らせ版には毎号「行事予定」のカレンダーが載ります。9月のページに並ぶのは、下関六斎市・消防団の秋季演習・古文書解読講座・関川村文化祭・大石ダム湖畔まつり——祭りの本体は一行もありません。
ひとつだけ見つかった言及は、2025年9月号の編集後記でした。
8月中旬から、下関まつりのために練習をする、太鼓や笛の音が聞こえて……
練習は8月中旬から始まります。そして、集落の行事は村の広報の対象になっていません。回覧板と集落の中の連絡で回っています。
会議録を読んで、いちばん驚いたのはここでした。下関大祭以外にも、村の中で続いている行事があります。しかも検索しても何も出てきません。
関川村議会の会議録(令和6年6月定例会議)に、こういう発言が残っています。
大蔵神社で親に連れられて夏越のお祓いに参加したり、盆踊りの輪に加わったり、あるいは下関まつりで大人から太鼓のたたき方を教えてもらったり、声枯らすまで山車引っ張ったり
太鼓の叩き方は、大人から子どもへ直接教えられる。山車を引くのは子ども。紙に書かれていない継ぎ方です。
未確認高田まつりがいつ行われるのか、高田の大輪がいつからあるのか、夏越のお祓いがいまも行われているのか——どれもウェブ上に情報が一つもありません。村指定文化財の一覧も確認できていないため、獅子舞の指定の有無は裏が取れていません。
このアーカイブの仕事は、失われかけたものを記録することだけではないのかもしれません。すでにあるのに見えていないものを、見えるようにすることでもあります。
調べたから、絞り込めました
県の調査報告書。村史。江戸時代の縁起。調べれば、出てくる記録はありました。それでも分からないことが残っています。
この言葉だけは、国立国会図書館の全文検索をかけても、一件も出てきませんでした。活字になっていない。つまり、覚えている人の中にしかない言葉です。
紹介記事にはこの習わしが書かれていますが、そのもとになった記述がいつのものかが分かりません。いまも続いているのかどうかも、確かめられていません。
この神社の名前の由来について、いま二つの説明が並んでいます。
ひとつは、創建は大同年間(806年)以前という伝え。神社の由緒書にもとづくもので、県の調査報告書にも、観光の紹介にも、この年代が書かれています。
もうひとつは、関川村観光協会のサイトにある説明です。大蛇から村を救った座頭・蔵の市について、村人は「高潔な心に深く感謝し、その琵琶と共に大蔵様として祀り上げました」とあります。この説明に立つなら、「大蔵」という社名は「蔵の市」から来たことになります。
けれど、蔵の市の伝説が文書として残るのは承応2年(1653年)の『大蔵神社略縁起』。806年以前の創建とは、800年以上の開きがあります。
さらに『関川村史』には、この一帯が「佐伯郷」と呼ばれ、「さえき」が「せき」に転じたため、下関の大蔵神社が「関郷鎮守 大蔵神社」と呼ばれたという説も載っています。
どちらが間違いという話ではなく、村の中に複数の伝わり方があるということだと思います。地元では、どのように伝わっているでしょうか。
こちらからできること
ここまで、お聞きするばかりでした。こちらからできることをお伝えします。
祭りの当日に記録を残してほしいという行事がありましたら、うかがえる場合には、撮影と取材をさせていただきます。下関大祭にかぎりません。村のどの行事でも構いません。費用はいただきません。
高田まつり、大蔵神社の夏越のお祓い、盆踊り、大石の獅子舞、南中の三匹獅子——村議会の記録から存在は分かりましたが、いつ行われているのかさえ、外からは分かりませんでした。日取りを教えていただけるだけでも、大きな助けになります。
一人で動いているため、日程が重なるとうかがえません。「必ず行きます」とは申し上げられません。正直なところを書きます。
その年に行けなくても、日取りさえ分かっていれば、翌年にうかがえます。祭りは年に一度ですが、来年もあります。「いつ行われているか」が分かること自体が、記録になります。
あらかじめお伝えしておきます。いずれも、主催の方にご相談し、了解をいただいてからにします。
断片で構いません
「子どもの頃こうだった」「うちの町内ではこう呼んでいた」という一言が、あとから他の話とつながって意味を持ちます。年代が曖昧でも、うろ覚えでも大丈夫です。確証のない話は「未確認」と明記したうえで残します。
フォームに書く(いちばん簡単です)
アカウントは要りません。5分ほどで終わります。必ず答えるのは2問だけで、あとは飛ばせます。ご家族が代わりに書いてくださっても構いません
思い出・証言を書く
項目を選んで埋めるだけの形式です。文章を書く必要はありません
雑談として話す
「たしかこうだった気がする」という程度の話でも歓迎です
直接伝える
アカウントは不要です。ご家族や知り合いを通じて、口頭でお聞かせいただく形で構いません
2026年9月25日確認
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